「ブラインド・マッサージ」を見ました。ホアン・シュエンが出演ということで見たいなあと思っていたら、NETFLIXで配信されていたので見ました。ロウ・イエ監督の作品は他にふたりの人魚を見たことがあります。独特の情感とどこか流れるような映像が少し見覚えがある感覚だったかも。近づいたと思ったら離れていって届かないような。どこか鮮烈な印象を残す映画でありました。
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新しい発見でもあり、当たり前のことを改めて理解できたような気分がしたのでした。視覚障がい者が主人公の映画で、視聴者にもそういう方たちが見ることを想定してあって、キャスト紹介がスクリーンで字幕で出るだけではなく、名前が読み上げられる。そんなこともとても新鮮な感覚。
これはそうだなあ、アメリカで暮らしていた時に「ああアメリカの人たちも生きていくために働いてそしてご飯を食べて生きていっているんだなあ。私と同じなんだなあ。」と強烈に肌で感じて理解した感覚と似ているような感じ。人間が生活をするということは、どこの国であろううと、人種が違おうと、少しやり方が違おうとやっぱり根本的には同じなのだった。そういうことはすでに頭では知っていたつもりだったんだけど、やはりどこかで自分の方の先入観があって、本当には理解が出来ていなかったのだ分かったのでした。
この映画を見た時の感覚はその時に感じた気持ちととても似ていたような気がする。視覚障がい者の方の住んでいる世界も私と変わらないんだなって。仕事をして、恋愛をして悩んで。赤裸々に描かれるのは仕事や恋や性生活のこと。描かれるそれはひたすら私たちとは少し違うやり方だとしても同じ生活。そんな映画の中からは匂い立つような生の香りがするのだった。
シャオマーがコンの色香に惑わされる、あのシーン、私まで嗅覚が鋭くなったような気したのだった。私は確かに目で見ているはずのにね。この映画を見ている最中はずっとそういう感覚がありました。
視覚というのはとても大きな情報源ではあるけれど、私たちは目にうつるものを全て見ているわけではなくて、自分が認識できるものしか実際は見ていない。だから全て自分に都合の良いように見てしまうのだ。そんなことを考えると本当に私はちゃんと「見る」ということをしているだろうかと思ったりもする。
この前、プラネタリウムにいった時に「ブラックマター」という確かにそこにあるけれど見ることのできない物質のことが語られていました。宇宙空間で惑星を支えるためにそこに確かにある物質なのだけど、人間は認識できないらしい。じゃあ一体「見える」の定義ってなんなんだろうと考えてよく分からなくなって、そしてこの映画のこと思い出したのだった。視覚障がい者の方にとっては、周りのものすべてが確かにそこにあるけれど見えないものなんだろうかと、そんなことを考えたり。それなら私だって同じなんじゃないかと。
絶望、希望、それでも生きていくこと。色んな人がいて、みんなそれぞれのやり方で生きているということ。みんな同じだということ。映像のせいなのか、ストーリーのせいなのか、少しクラクラするような、そして心に残る映画でした。
ブラインド・マッサージが見れるのは・・・
⇒Netflix