ダイ・シージエ監督・脚本の映画「中国の植物学者の娘たち」を見ました。同性愛を扱う作品ということで中国での撮影は許されず、ベトナムで撮影をしたそうです。そういうことは見た後で調べて知ったのですが、植物園の濃密な湿度感がベトナム映画のシクロに似ている気がしたので、あながち間違いではなかったということですね。あの独特なたちこめる濃密な空気がフィルムに立ち現れるのはなんだかすごいな・・・と思うのでした。
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ミンとアンの同性で愛し合う二人の姿はとても美しいのですが、見ながらずっと何かしらの居心地の悪さを感じていました。それは同性愛を扱っているからという訳ではありません。というのも、同じく同性愛を扱っている作品でそんな居心地の悪さを感じたことはないのですから(例えば霜花店-運命、その愛でも全く感じなかった)。なので、その原因はなんだったんだろう?と考えていたのですが、彼女たちの姿を美しく描きすぎていてなんだか「同性愛の美しい二人」を商品として視聴者が消費しているような気分になってしまったのです。ただ「愛」を描いているはずなのに許されない関係だからこそ美しいと特別なもののように描かれていることへの違和感かな・・・
この映画は、同性愛がテーマという訳ではなくて、「強い力を持つ旧体制の思想」と「許されない新しい思想」を「父」と「同性愛」で表現しているように見えます。監督のダイ・シージエがフランスに住み、中国への入国は拒否されていないものの、中国で彼の作品の販売が許されていないことを鑑みるとまさに中国と彼の存在の投影とも言える気がします。見ている途中からそれが色濃く感じられて、表現の自由が許されないことへの強い静かな憤り、哀しみが伝わってくる気がしたのでした。
それはおそらく主役のミンがロシア人と中国人との混血というところからも、彼のアイデンティティーの投影が感じられる気がしました。これは多分だけど。
ただ愛し合う二人の物語なのに、許されない愛なんてあるべきなんだろうか?なんて考えつつ、自分たちの愛を守るために兄と結婚という方法を選ぶしかない彼女たちの歪んだ思考が悲しいのでした。兄の立場や思いはすべて無視されて描かれている気がしてそこはどうかと思ってしまったけれど。彼があまりにもただの登場人物のように感じてしまったかな。
美しい植物園に美しい恋人同士を描き出す監督の美意識を純粋に楽しめる映画でもあると思うのですが、私にとってはフィルムに撮影されている目に見えるものよりも監督がそこに込めた別の思いが妙に存在感をもって迫ってくる不思議な感覚に陥った映画でした。