ウォン・カーウァイの映画は初期のものは見ていたのですが、花様年華はいつか映画館で見れる機会があったら見たいな・・・となんとなくまだ見ていませんでした。だけど、なかなかそんな機会もないまま今まで来てしまったのです。ですが、ふと思いついて見てみたのでした。
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この独特の世界観は、やっぱりウォン・カーウァイならでは。隅々まで張り巡らされた美意識に酔いしれました。そして彼はきっと頭に鮮明に撮りたい画が浮かんでいるんだろうなと。だから撮影の際は淡々とその画を再現しているのだろうと思ったのです。
そしてこのムーディーな感じが最高なんですが、もっと感じたのはソリッドだな、ということ。こだわりを表現するには「引き算」が必要であり、徹底的に要らないもの、必要ない情報は取り除かれているのだと気づきました。引き算の美学のようなものを強烈に感じる。
例えば、トニー・レオンの妻も、マギー・チャンの夫も声や存在は感じさせられはするけれど、実際に画面にその姿を現すことはない。無機質な存在だから彼ら二人が不倫の恋だとしても生々しさがないのです。この引き算が美しさを際立たせる。もし相手も視聴者に見えていたら彼らの恋がこんなにも際立たなかったはず。
あとは出てくる場所も部屋、食堂の部屋、ガードレールの下?、ホテルの部屋、車の中、マギー・チャンの会社など限られた場所だけ。こだわりぬいたものしか映さない。どこか気を抜いた部分がなくて緊張感があるのはそのせいかも。
あれもこれもと映したくなる気がするのに、必要なもの以外をばっさりと排除することがこだわりに繋がるのだと気づいたのでした。
マギー・チャンの衣装の美しさもそれだけでも見る価値がある。その姿の美しさはちょっと涙が出そうなくらい・・・
毎日通る階段を映したまま、衣装が変わった姿を見せることで違う日の彼女だと表現するなんて魔法のようでした。
トニー・レオンもイコール哀愁みたいな演技が素晴らしい。とにかくこの映画は主役の二人も素晴らしいので、相乗効果がすごい。
しかし、こういう湿ったような映像ってどうやって撮影するんだろう?中国系の映画でよく感じる空気感なのだけど、たまらなく魅力的だなと思います。
ラストのアンコール・ワットは唐突な感じもしますが、あの場面は彼らの恋のように朽ち果てても美しいという場所でなければならなかったのだと思う。何度もすれ違ってしまった二人だけれど、確かに愛は存在した。そしてその記憶を封じ込めた後、時間がたって薄れてしまっても、その思い出は朽ちた姿さえ美しいものなのです。